もし、自分だったら… 

 横山秀夫さんは、ずっと気になっていた人だ。
 実母の、お気に入りの作家。
 実家に帰ったときに、一度一緒にテレビで2時間ドラマを見たことがあったが、なるほど母が言うだけあって深い人だなあ、と思った記憶がある。

 そんなことをちょくちょく話したせいか、昨夜、会社がえりに夫ちゃんがDVD『半落ち』を借りてきた。半落ち [DVD]

 私が知ってるのは、この映画が大ヒットしてから骨髄バンクの登録者が増えたという風聞のみで、ストーリーは何も知らなかったのだが、この物語はとてつもなく深かった。

 「あなたは誰のために生きてますか?」これが中核となるテーマだ。
 たいていの人は自分のために生きている。だけど、人は一人じゃ生きられないことを、セリフでもなく、映画の「空気感」だけで伝えている。

 が、それだけで終わらないところがすごい。

 懇願されて、アルツハイマーになった奥さんを殺した主人公をとおして、どこからどこまでが「命」なのかに触れられる。
 意識がのない魂のなくなった人間を、人間と言えるのか--。
 
 もし、アルツになって、記憶が無くなって行く夫ちゃんに「自分が自分であるという意識があるうちに、殺してくれ」と言われたらどうしよう、そんなことを否応なく考えさせられるのだ。
 
 夫ちゃんでは現実味が無いので、もし父母が同じことを言ったら…と考えてみる。 もしかしたら、私…、殺してしまうかもしれない。
  
 この間、実家で一緒の部屋に寝ていたら、寝入りばなに母がこんなことを言った。
 「孫には、私のことをおばあちゃんて呼ばせないでね。お願いだから、名前で呼ばせね。何才になっても、私は私として生きてたいから」って。
  
 
 母の言葉には、これまでになく「彼女」の切実な思いを感じ取れた。

 妻でもなく、母でもなく、一人の人間として生きる時間がほしいということは何度も聞いてきた。呼称への母のこだわりは、そんな思いが込められていることは、十分に知っているつもりだったが、このセリフは半端じゃなく重かった。

 そんなことを考えると、相手が「殺して」と懇願してきたとき、わたしが殺すか殺さないかは、生前の相手の「命、魂、生に対する考え方」にあわせてあげたい、と思ってしまう。

 もちろん、「現実にどうするか、どうできるか」は、まったく別の話なんだけど、ね。
 
 子どもができてから「もし自分だったらどうするか」ということを凄くリアルに考えるようになった。
  
 もし、子どもが障害をもっていたら。
 もし、子どもが大きくまるまえに私が死んじゃったら。
 次々にやってくる、もし、もし、もし、もし、もし、もし…。
  
 あんまり、悪い想像ばっかしてたら、やってられないのだけど、でもそれでも、妊娠前に比べたら5倍くらいはリアル感がある。

 でも、なぜか、いまだ私は骨髄バンクに登録する気になれない。
 それは、いったいなんでなんだろう。
 何かが私を躊躇させている。
 私は非情なの? 冷たいの? 
 ただキレイごと言いたいだけ…? 
 それとも何かを刷り込まれてしまっているんだろうか?
 よく……、わからない。
 
 でも、出産したら、こたえがわかるような気がするんだよな、なぜか。
 出産したら、なんのためらいもなく登録しそうな気がする。

 日常生活がたんたんと送れている時ほど、深いテーマがおざなりになる。
 でも、そういうことを思い出すきっかけが無いと、生きることに対する緊張感がなくなって、どんどん人間がつまらなくなってしまう。

 そういう意味で、横山さんはきっかけ作りの名人だなあ、と深く思った。
 また、別の作品を読んでみよう。