「似てる」とか「似てない」とか

 年始に届いた年賀状。年齢的なものなのか、いわゆる家族写真が多くなった。夫婦の子どもを見て、どっちに似てるとか似てないとか、「誕生時はパパ似だったのに、だんだんママ似になってきたー」とか、そんなことを夫ちゃんと話したり。

 かくゆうウチも例にもれず、りんごの顔写真をウワッと掲載した(ホントは3人で撮った写真を載せたかったのだけど、諸事情--だってりんごが産まれるのが遅かったし、入院中の写真はすっぴんしかないんだもーん(笑)--により、りんごのみとなった。届いたみなさん、お許しを)。

 たぶん、年賀状を見ながらどっちに似てるとか似てないとか、言われてるんだろうのかなあと思う。だって、ウチがそうだから。ま、年賀状にまつわる風物詩みたいなもんなんだろうな。
 
 でもね、ヒトん家の写真を見ては、わーわー言うくせに、今は私、りんごがどっちに似てるとか、全然キョーミがない。

 妊娠中はそれはそれはキョーミがあった。夫ちゃんのココと私のココが似ればスゴく素敵な子になるかもとか、そんなことばっかり考えてたりした。そうそう、産まれて初めて抱っこしたときも、まだ「どっちに似てるかなあ」と考えたりしてたなあ、と思う。

 けど、りんごと名の付いてないハラ子(胎名)のお世話を重ねるうち、そういうの吹っ飛んじゃった。もちろん戸籍上はりんごはウチの子となることになっていたし、もちろん今もそうなっているけど、なんか「私の子」とか「ウチの子」っていうよりは、「神さまからの贈り物」っていう感覚に近いんだよなあ。

 うん、そだそだ。「私の」という所有感がぜんぜん無い。私が所有しようとすると「所有してはいけないよ。この子はこの子として神さまから贈られたんだよ」と誰かが耳元でささやくような気がする。「私の」というえげつない所有欲に釘をさすような感じで。

 たぶん、そのせいだ、「りんごが私と夫ちゃんのどっちに似てるか」というテーマにキョーミがないのは。

 今、思えば、なかなか名前が決まらなかったのも、ココに原因があったのかもしれないなあ、とふと思う。
 妊娠中は、自分の趣味まるだしの名前を付けようと意気込んでいた。けれど、ハラ子が産まれたときから、「この子に自分の趣味を押し付けてはいけない」という気持ちが私を圧倒するようになったんだよね。自分の趣味を押し付けようとすると、「ダメダメ!」とだれかがささやくんだ。結局は、自分の趣味を押し殺して「この子にあう名前」で選んだんだけど、おそらく、あの悩みの渦中は、「自分の願望や趣味を表す名前」と「この子にあう名前」との間で、私は揺れに揺れていたんだと思う。

 私自身が親の意向や趣味を押し付けられたことで苦しんだ部分が結構あったからかもしれないけど、できるだけ私は私の趣味を押し付けるよりは本人に選ばせたい、親の私としては、りんごの本質や美点を引き出すためのサポートをしたい、それには親の私が無心にならなければ…という思いが強いのよねぇ。
 
 実父も夫ちゃんも「男は最終的なところで、自分の子だという確証がないから、子どもと自分の似ているところを探しては喜ぶんだよ」と言っていた。「あれだけ立ち会って一緒に出産した夫ちゃんでもそう思うわけ!?」と、私はこの発言を聞いてとてもとても驚いたのだったが、私は女で、確実に産む性なので、りんごは間違いなく私の子だと言えるせいで、以上のような考えになってるのかもしれない。

 「とっても芯が強いなあ」。そして「不思議な上品さを身にまとっているなあ」。初めてりんごを抱っこした瞬間、そう思った。それは今も変わらない。だから、私は「ウチにこんな子がきていいわけ? 思っていた以上に素敵な子がやって来ちゃったー!」という思いも強い。

 だからこそ、どっちに似てるかなんてことに左右されず、自分の本質を活かしてのびのび生きてほしいなあ、と思ってしまう。のびのび、そうだ、私は「のびのび」育てたいんだ。
 りんごの本当に大事な部分で、親の言うことなんかに簡単に従うようなヤワな子にならないでね。ママは、いつもりんごの本質を見られるようにガンバるよ。