子宮と夫ちゃんと子ども

 子どもは、どちらかと言うと苦手だった。

 高校時代は、アメリカで流行っていた「DINKS(子なし夫婦)」に憧れていたし、20代は正直、結婚や出産は自己実現の邪魔!とかなり敬遠していた。
 「結婚なんかしなくてもいいから、子どもだけ産みたい」という女性にときどき出会うことがあるが、そういう人の気持ちはまったく分からないタイプだった。

 「子どもが好きか嫌いか」と問われれば、「好き」と答える。
 けれど、子どもという存在が”たまには好き”だけど、”純粋にずっと好き”でいられるほどではない。 本音を言えば、子どもよりオトコだった。オトコのほうが、”純粋にずっと好き”と言い切れる、そういう人間だった。
 だから、別に私は恋愛だけで満足。結婚なんかしなくても全然よかった。

 そんな私が「結婚しよう」と思ったのは、一人成長するのに限界を感じたからだ。29だった。
 自分ひとりの成長としては「もう行き着くところまで行ってしまったなあ」という想いでいっぱいになっていた。そして、私の内面的がさらに育つには、それまで経験したを再経験してもたかが知れてる、という気分になっていた。

 それには何がいいかな、と考えたときに、私結婚しか想い浮かばなかったのだった。私はとっても結婚に冷めていて、結婚=忍耐だと思い込んでいた。
 そこで中学時代から「尼さんになりたい願望」がある私としては、寺で修行しても結婚で修行しても同じだという考えに行きつく。そして、「自由」のなかから何かを学ぶのではなくて、「忍耐」のなかから何かを学ぶステージに移ってもいいんじゃないかなあと思っていた。

 しかし、だからと言って、相手が誰でもいいという訳ではない。結婚相手は私にとって「修行するための寺の同僚」という位置づけだったから、私にとって心地いい人がいいなあとは思っていた。その意味では、「成長」や「自由」に対しての夫ちゃんの認識は、私の「それと同じだった。

 「夫ちゃんと結婚しよう」と思ったのは、不思議と「この人の子どもだったら産んでもいいかなあ」と思ったからだ。色んなタイプの男性お付き合ったが、そうそうこんな気持ちになる人がいなかったわけだ。
 自分好みのカッコ良い相手をまえに大股を開くことができたとしても、その人との子どもまでイマジネーションできる人はそうそういなかった。

 私のなかで「官能的なH」と「子ども」は全然別の次元に存在していたわけだ。思い返せば、とてもへんな話だが、私は相手とHしながら、「この男の子どもだったら頑張る気になるかい?」なーんていうふうに自分の子宮と対話していたのだと思う。
 その意味で私は「身体感覚信者」だ。長らく自分の子宮の意見をとても気にしていたような気がする。

 子どもが欲しい理由って色々あると思う。「夫と”家族”になりたい」と考える人もいれば、純粋に「それが幸せだから」と考える人もいる。「愛する夫の子どもが欲しい」という情熱的な人もいる。この辺は個々の価値観が個性的に現れるところかもしれない。
 私は…と言えば、第一に「地球に自分の遺伝子を残したい」という気持ちが大きかったなあ。

 30も過ぎて、体力が落ちたことを感じて、うーん、この分でいくと40には…なんて想像したときに、「私が死んだあとの地球を私の代わりに見てくれる人」あるいは「私の存在を発展させてくれる人」が欲しい、と思ったのだった。
 男っぽい考えかな。でも、ホントにそう思った。
 そして第二には、子どもを産んだこともないのに、子どもを語ったりしたくなかった、というのがある。
 学生時代に、結婚も出産もしたことないのに「女性学」を教えている教授がいたのだが、どうも私はそういうタイプの人が昔から嫌いなのだ。アメリカに行ったこともないのにアメリカを毛嫌いするような、自分の経験論をもたずにわかったような理屈を言う人が嫌いなので、そういう人間になりたくなかった。 
 第三、第四…と色いろあるが、まあ大きく言えばこの2つであろう。

 そして、いざ妊娠してみると、これがけっこう私に大きな変化をもたらした。 
 あやまあ〜、結婚と妊娠と、どちらが大きな変化をもたらしたかと言えば、それは間違いなく妊娠だ。
 妊娠してから、子どもという存在が不純な動機で”たまには好き”だった子どもの存在が、純粋な動機で”ずっと好き”になった。つまり、「子どもよりオトコ」だった私が、「オトコより子ども」になった。順番が逆転した。

 子どもにはあまり好かれるタイプでもなかったのに、公園に行くと、たいがい子どもが寄ってくるし、寄ってこなくても目は合ったりする。ママである私に寄ってきているのではなく、お腹の赤ちゃんに寄ってきているという説がママ友内にはあるが、とにかく以前に比べて子どもに対する磁力が働くようになったのは確かだ。

 ”たまには好き”というのは、観察対象として好き、だったのだと思う。小さい頃、従兄弟の世話をさせられて「子どもはもうたくさん!」という気持ちになっていたのだが、それでもペットのような観察対象として子どもは好きだった。その意味では、妊娠するまでとても自己中心的な好奇心をもっていたのだと思う。

 だけど、今はそんな興味本位な動機を超えて、純粋に好きだ。理屈なく好き。これはお腹の赤ちゃんが私と血のつながった「家族」だから、理屈も何もないのだと思われるが、はたしてどうなのだろうか。

 母は昔から「結婚も妊娠も1度はしてみなさい」と執拗に言った。
 どうしてかを問うと、「世界に対して、根源的に優しくなれるから」と言っていた。
あまり言葉上手な母じゃないせいか、母の意図がよくわからないでいたが、今はほんのちょっとその意味がわかるような気がする。

 でも、今はその全貌がよく分からない。

 妊娠・出産というトンネルを抜けたとき、どんな秘宝が見つかるのか。
 キャホー、インディージョーンズの冒険みたいだな。楽しみ〜♪だ。