人肌という魔法

 夫ちゃんに当たりまくって、うわんうわん泣いた。
 色んな何かが溜まってた、ような気がする。
 こうして私が夫ちゃんに当たりまくるときは、たいてい赤ちゃんという一つの生命を抱えた重みに堪え難い気持ちになっちゃうときだ。

 胎動が激しくて、活発で、それはそれで赤ちゃんが元気な証拠。
 それは頭ではとってもわかっているのだけど、この元気な赤ちゃんをちゃんと育てていけるのか、この飽きっぽくて根性なしの私が四六時中赤ちゃんの世話をしていけるのか、そんな重圧に押しつぶされそうになってしまうのだ。

 「重く考えてたら、気分が重くなるだけだよ」 
 そう夫ちゃんは言った。わかってるよ、わかってる。けど、なんだか腑に落ちないのだ。「あーたは身体が変わってないからホントのところが分かってない! 身体に生命1個背負った私の気持ちがわかってない!」と言いたくなる。言ってもしょうがないのに言いたくなる。

 「殴って気が済むんなら、殴っていいよ」なんて優しいことを言うもんだから、よけいに頭にくる。そして、バカな私は夫ちゃんに平手打ちしたり、身体をつねったりするのだ。夫ちゃんを殴れば殴るほど自分のバカさ加減に直面させられるだけなのに。

 こうして涙で心のなかに溜まった澱を発散させてもらえてることが、ありがたいことを実は私はよく知っている。泣きたくても一人じゃ泣けないなあと、夫ちゃんの出張中にはよく思う。

 誰かの肌があって初めて泣けるときが私は多い。
 人肌があってはじめて私は冷静な自分を脱ぎ捨てられる。冷静な自分を脱ぎ捨てて、捨て身で「泣き」に入れる。

 人肌という魔法。
 結婚して、一番よかったのは、この人肌パワーがいつも身近にあることだ。
 
 父はいまでも私の前で涙を見せる。
 母も私の前で涙を見せる。
 弟はドラマを見てるとき位しか泣かないけど、こころが泣いてる日は家族の皆がわかる。
 一人が泣くと、いっせいに涙が伝染して、家族中が泣き始める。
 そういう家族で、私は育った。

 父母がふたりとも不器用だったせいか、身体のスキンシップは多くなかった。けど、思い起こせば、涙を見せ合うことがスキンシップの代わりになっていたような気がする。
 「お父さんが泣くんだから、私もみんなの前で泣いていいんだ」
 自然に、そう思えた。その涙の量だけ、絆が深くなった。

 だから、私も泣きあえる家族をつくりたい。
 お腹の赤ちゃんにも、「泣く」ってどういうことか、知ってもらいたい。
 涙の意味を一緒に味わいたい。

 夫ちゃんの涙は、まだ1度しか見たことがないけど、夫ちゃんが泣きたい日や涙のツボは、もうわかる。
 私の涙のツボはあまりに多くて、しかもヘンなとこだったりするから、おそらく夫ちゃんはまだ戸惑っているようだが、だいぶ慣れたようだ。
 泣きあえる家族がいいな。

 ひとしきり泣いて、泣き止んだら、お腹のなかからドデカい蹴りを食らった。
 は〜て、あれはどういう意味だったのかなあ。