信頼と叱咤


昨夜、布団のなかで娘を叱ったことについて考えた。どうして、私は昨日あそこまで本気で叱ったんだろう、って。

これまでも同じようなことは何度となくあった。だけど叱ったというよりは、なだめたという感じに近かった。だから、あんなふうに叱った自分に、正直なところ私自身が驚いたのだ。

私のなかで一つだけ決めていたことがあった。それは、「娘との間に信頼関係ができたぞ!と強く思えるまでは叱るのはやめよう」ということ。だから、1歳までの間にも何度となく叱るべきだろうなと思うシーンがあったのだけど、私は見過ごしてきた。りんごちゃんと私の間に信頼関係ができあがっているのか、自信が無かったからだ。

親子なんだから、母子なんだから、本能による無条件の信頼関係はあるのかもしれない。だけど、私は臆病なので無条件の信頼を無条件には信じることができない性分なのだ。

幼い頃の私は、とても疑い深くて、お母さんの言うことだから信頼できるははず!なんて素直には思えない子だった。というか、今でもそうなのだけど、自分で何でも確かめてみないと、信用しないところがある。特に「親だから」「先生だから」といった、権力をふりかざして、上から相手を抑圧し、ねじ伏せようとする人は本当に大嫌いなのだ。だから、りんごちゃんに対して同じことをしたくはない。

りんごちゃんにしてみれば、「相手が信頼できる人」だから、叱られても信用して言うことを聞いてみようと思うはずで、「母親だから」という理由だけで叱られても信用できるというわけじゃない。だから、りんごちゃんが「私という人間」を信用してくれたなと強く思えるまでは、私は叱ることを極力ひかえようと思ってきた。

それなのに、昨日ふいに叱ってしまった。そして、そんな自分にびっくりしている。なんで私は叱れたのか--。たぶん無意識のなかで、りんごちゃんと私の信頼関係ができていたんだろう。それが、叱るという行為にGoサインを出したんだろうと思う。

ここのところコミュニケーションがとれてきて、しかも私からの一方的な発信ではなく、りんごちゃんも発信するとう双方向コミュニケーションができあがってきていたから、私も彼女との信頼関係に無意識のなかで自信をつけていたのかもしれない。

それに加えて、ウイルス性胃腸炎で入院したこともきっかけとなっていると思う。いまだにうまく表現できないのだけど、あのばたばたした中で「この子は私が守らなくちゃ」と何度となく思うきっかけがあったし、それによってかなーり絆が深まったという実感がある。

何はともあれ、ここまで色んな山や谷を乗り越えて、私は、私たちの間の絆に確信がもてるまでに至れたようだ。それが「お互いの間に信頼関係ができたと強く思えるまでは叱らない」という強い決め事を吹き飛ばすパワーをもっていたのだろう。そして、私とりんごちゃんのこころの準備ができたところで、りんごちゃんが髪の毛事件を起こしたのだ。万事、ほんと上手くできているなあと思う。

今回タイムリーに上手く短時間で(1分以内で)叱って、そしてその後はいっぱい抱っこして頭撫で撫でして…とすることができて本当によかった。叱るのが苦手な私としては理想的にこなせたので、けっこう自信ができたなあと思える。

建築で言えば、今やっと基礎工事の基礎が終わったあたりだろうか。育児って、ほんとコツコツした仕事だなあって思う。そして、何年後かには世界に一つしかない芸術品が作られるんだよね。

りんごちゃん、ママはりんごちゃんに叱咤激励される日を本当に楽しみにしているんだよ。年を重ねても「”老いては子に従い”っていい言葉だね」って素直に言えるような、かわいい人間でいられるよう頑張るからよろしく、っね!